僕の好きな叔父さん
報道によれば、東海大の菅野智之が初めてプロ野球を観戦したのは、叔父・原辰徳の引退試合だという。私も、この試合を東京ドームのスタンドで見ていたのでよく覚えている。試合後のセレモニーで、原が「巨人には侵すことのできない聖域があります」という、あまりにも重々しい挨拶をした日である(蛇足ながら、あの挨拶は、長嶋茂雄の「我が巨人軍は永久に不滅です」という明快かつ軽すぎる引退スピーチとあまりにも対照的だ)。
菅野少年が、叔父さんの発した「セイイキ」という言葉の意味をどこまで理解していたかは分からない。ただ、ああいう雰囲気の試合を体感すれば、巨人というチームに対する執着が身体に貼り付いたとしても不思議ではないだろう。おそらく、彼の傍らには原の親族一同がいて、涙を流していたに違いない。試合後にベンチ裏へ行って、さっき挨拶をしたばかりのユニフォーム姿の叔父さんと握手を交わしたかもしれない。「世界」に目覚めはじめた少年に与えるトラウマとしては、十分すぎる体験だと思う。
それから16年の月日が流れ、ドラフトの日を迎える。叔父さんが監督を務める巨人に入団できると信じていたであろう菅野青年は、土壇場でその思いを裏切られた。「ドラフトとはそういう制度なのだから仕方ない」という声があり、「人権蹂躙だ」という声がある。その背景にあるのは、「叔父さんのチームへいけない菅野君は可哀想なのか/そうではないのか」という議論である。どちらの立場に立つにせよ、マスコミはそういうトーンで報道している。
しかし、ツイッターやさまざまなブログで多くの野球ファンが提起しているのは“素朴な疑問”である。それは、「巨人に入ったって、原がずっと監督でいる保証はないだろ。来年でクビになる可能性だって大いにあるんじゃないの」というものだ。深く考えなくたって、当たり前のことである。そして、そんなことは野球の世界に身を置いている菅野青年だって百も承知のはずだ。そうでなかったらおかしい。
日本ハムに行きたくない、と考えるのは個人の自由であり、権利である。問題はそこではない。何だか気持ち悪いのは、「叔父さんのチームに行きたいのに行けない」という、はっきり言ってしまえばバカな理由付けが、菅野智之という前途有望な野球選手にレッテルとして貼られてしまっているということだ。
本当に巨人志望なのであれば、はっきりと自分の言葉で言えばいい。「僕は叔父さんを見て巨人が好きになりました。だから、巨人というチームで野球がしたいんです」と。それは「叔父さんが監督だから巨人へ行きたい」とは、似ているようで全然違う。叔父さん>巨人なのか、巨人>叔父さんなのか。そこには決定的な違いがあるはずだ。
私は、個人的には「プロ入り時に球団を選り好みする選手」は好きではない。江川卓も桑田真澄も元木大介も、内海哲也も長野久義も好きになれないし、澤村拓一にも似たような感情を抱いている。それは巨人に限った話ではなくて、小池秀郎や新垣渚のあまり幸福には見えない野球人生にも、「選り好み」の因果を感じてしまう。
だから、仮に菅野が日ハム入りを拒否したとしたら、彼は私の「好きになれない選手リスト」に追加されることだろう。しかし、こんな一介の野球ファンの好き嫌いなど、どうだっていい話である。菅野は、とりあえず「自分の言葉で」本当の意思を表明すべきだと思う。
(オースギ)