『イロモネア』の正月特番を見て思ったこと。
「笑わないほうにも問題があるんじゃないか?」
一例を挙げれば「友近の蓮舫」とか普通に笑うだろう。
あれは友近のパフォーマンスに問題があったというよりも、
「蓮舫」のパブリック・イメージに反応できなかった
受け手の鈍感さが問題ではないのかと。
このへんは、エンタテインメントの「送り手」と「受け手」との
関係性に関わるデリケートな問題ではある。
一般的な概念でいえば「受け手」は「絶対善」であって、
「受け手」を満足させられないパフォーマンスは、
それがどんなものであろうと「ダメ」ということになってしまう。
しかし、本当にそうなのだろうか?
確かに「受け手」は入場料その他の対価を支払って
パフォーマンスを享受している立場なのだから
(『イロモネア』の客は入場料を支払っているわけではないだろうが)
「送り手」に対して絶対的に優位な立場にいることになる。
つまり「面白くないのはアナタの責任であってワタシの責任じゃないのよ」
というわけである。
それは、まったくの正論だ。否定しようのない正論かもしれない。
だが、再度言う。本当にそうなのだろうか?
たとえば、歌舞伎や古典落語のような「伝統芸能」の場合、
受け手の不満足は、送り手の責任というより「受け手の教養不足」として
解釈されるケースが多くはないだろうか。
「面白くないのはアナタの責任ではなくワタシの責任かもしれない」である。
伝統芸能だけでなく、現代美術とか純文学とかアート系映画とかもそうだろう。
無論、それがいいとは思わない。
そういうものが、いろんな「壁」を作ってしまった経緯があると思う。
しかし、である。なぜ「お笑い」に関しては
「面白くないのはアナタの責任であってワタシの責任じゃないのよ」なのか。
たぶん、大衆芸能というのはずっとそういうもので、
そのことに対して、送り手も受け手も根本的な疑いを持たないようにしてきて、
今日があるのだと思う。
結論から言えば、もう、そういう時代じゃないということだ。
様々なIT的進化の浸透によって、大衆的なものほど「批評」のターゲットになる。
送り手であろうが受け手であろうが、そのことに鈍感であってはダメということだ。
「面白がるのは送り手(アナタ)と受け手(ワタシ)の共同作業」なのである。
なぜ、こんな駄文を書き連ねてきたかというと、
ここまで書いてきた「お笑い」は、「プロ野球」と同じだと思うから。
プロ野球ファンは、もっと能動的に「面白く見る」努力をしなくてはならないと思う。
グラウンドでのパフォーマンスやメディアの報道を一方的に受け止めるのではなく、
それらを能動的にどう「解釈」してどう「表現」するのか。
「面白くないのはアナタの責任であってワタシの責任じゃないのよ」
という態度からどうやって脱却するのか、ということである。
応援しているチームが上位にいれば面白いし、下位にいれば面白くない。
あるいは、応援している選手が好調なら面白いし、不調なら面白くない。
実は、そういう態度こそ「つまらない」ものではないだろうか?
プロ野球ファンは、応援している対象がどんな状態であろうとも
「面白く見る努力」をすべきであるし、そのうえでなお「面白くない」ことがあれば、
容赦なく声をあげるべきだと思う。
最後に一言。
阪神ファンは「金本のフルイニング連続出場」が本当に面白いのか?
(オースギ)