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スタルヒンとダルビッシュ

独走する巨人を横目で見ながら、1冊の野球本を読み進めていた。
ただの野球本ではない。2段組486ページ、定価5000円(!)の大著。

創立したばかりの「大日本東京野球倶楽部」が、
1935(昭和10)年の3月から7月にかけて行った大遠征ツアーの完全追跡記録である。
巨人軍の“初代メンバー”となった18人の選手たちは、
米国西海岸、中西部、メキシコ、カナダ、ハワイで計109試合を戦い、
74勝34敗1分という戦績を残した。
対戦相手はマイナーリーグ、黒人リーグ、独立リーグ、日系人チーム、セミプロ、企業チームなど
多種多様。若き日のジョー・ディマジオもその中に含まれていた。
移動につぐ移動(飛行機ではなく、鉄道かバス)、試合につぐ試合。
しかも驚くべきことに、投手は沢村、スタルヒン、青柴、畑福のたった4人!
米国人をあきれさせたという殺人的スケジュールの遠征は、なぜ強行されたのか。
その主たる理由は、①野球技術の向上②試合興行による収入確保、だった。
当時、日本国内ではまだ他のプロ球団は発足しておらず、つまり対戦相手がいない。
それでは野球技術も向上しないし収入も得られないから、
“本場”の北米に乗り込んで鍛錬しつつ稼いでこい!というわけである。
この過酷なドサ周り興行こそが、いまのNPBの原点にほかならない。

ちなみに「ジャイアンツ」というニックネームが決まったのは、
この遠征に際して、現地のメディアや観客に対する便宜を図ったためである。
候補になったのは、当時の大リーグを代表する有名チームから頂いた
「ヤンキース」「ジャイアンツ」の2つだったが、
Yankeesは東部アメリカ白人(yankee)という意味だから日本のチームが付けるのは滑稽で、
「ジャイアンツ」に決まった。それが日本に逆翻訳されて「巨人軍」となったというわけ。

そういった野球史の再検証と同時に、
残されたボックススコアなどに基づいた各試合の再現を読んでいくのが楽しい。
寄せ集め集団が、様々な軋轢を乗り越えながら一つの「チーム」になっていく過程。
ワタシは、知らず知らずのうちに、21世紀のアメリカに乗り込んでいった
「日本代表」チームを重ね合わせていました。

大事な試合には必ず登板する「タフなエース」沢村栄治は松坂大輔。
「若き長身の混血投手」ビクトル・スタルヒンはダルビッシュ有。
「傑出した技術とカリスマ的言動」の苅田久徳はイチロー。
「奔放でヤンチャな内野手」水原茂は西岡剛。

当時の地元紙が「トーキョー・ジャイアンツ」をどのように紹介し、報道したかも
丹念に記録されている。その中から一つ。
「ジャップに野球がやれるかって? グラウンドをネズミの群のように走り回るさ。
アメリカのバッターのようなパワーはないが、守りの俊敏さと走者となったときの
スピードでそれをカバーする。見ればさぞ驚くだろうよ」

21世紀のWBCで「日本代表」に寄せられたコメントと、まったく同じじゃないか。
違うのは、「ジャップ」という言葉が使われなくなったことだけである。

(オースギ)

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2009年05月15日 01:15に投稿されたエントリーのページです。

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