06年の野球でもっとも印象に残ったシーンは何だろう、と
あらためて振り返ってみたとき、浮かんできたのは――。
「薮田が、アレックス・ロドリゲスから三振を奪った場面」
WBCの日本×アメリカ戦。薮田はAロッドと対戦し、三振を奪った。
しかも、猫だましみたいな三振ではない。
追い込んで、最後は高めのストレートを空振りさせる。
正攻法、真っ向勝負、威風堂々の奪三振だったのである。
早朝、テレビでこのシーンを目撃したときの「頭がクラクラする感じ」は今でも覚えている。
たとえば、これが松坂大輔だったら、もうちょっと違った感情が喚起されたと思う。
「どうだ、日本のエースはスゲェだろ」というトーンの、ナショナリスティックな誇らしさというか。
でも、投げているのは薮田だった。
いや、薮田を貶めているわけじゃない。彼はロッテを日本一に導いた一流のセットアッパーだ。
ただ、それまで自分の野球的思考のなかで
「薮田安彦」という名前と「アレックス・ロドリゲス」という名前を、
同じ土俵に並べてみる発想はまったくなかった(松坂なら、それはあった)。
それが、WBCというガチンコ勝負の舞台であっさりと実現し、
しかも、薮田が完璧な勝利を収めてしまったのである。
「メジャーのスター選手は雲の上の人という思い込み」
「パ・リーグの中継ぎ投手という存在を不当にマイナー視する思い込み」
普段、野球を横目で眺めている程度の連中が上記に抵触するようなセリフを口走ったときには
断固として否定してきたはずの自分が、実は、同様の固定観念に縛られていた。
そのことに気づかせてくれただけでも、WBCは自分にとって、意味のあるイベントだった。
かつてあったような、日本の野球とアメリカの野球との間の「距離感」は、もはや存在しない。
(日本がアメリカを上回ったという意味ではない。あくまで「距離感」という問題)
年俸30億円のメジャーリーガーであろうが、パ・リーグの中継ぎ投手であろうが、
勝負の行方は、あくまで紙一重だ。その事実を、噛み締めなくてはいけない。
たぶん、「距離感」を失っているのはこちら側だけじゃない。
「松坂は20勝するのか」「サイ・ヤング賞を獲るのか」などと大騒ぎしているアメリカの報道を見ると、
まるで、ボブ・ホーナーやケビン・ミッチェルが来日したときの我々と一緒じゃないか、と思う。
アメリカ人も、かつてあったような日本の野球との「距離感」を喪失し、戸惑っているのだ。
スピルバーグが製作し、イーストウッドが監督した『硫黄島からの手紙』は、
驚くほどに「日本映画」だった。良くも悪くも。
野球だけではない。日米の「距離感の喪失」はさまざまなジャンルで進行している。
それは、何を意味しているのか。
07年、松坂や井川や岡島や岩村のプレイを見ながら、考えていこうと思っています。
(大)